父について
2014年にfacebookにポストしたものを転載。
父は53歳で自衛隊を退官したあと、民間会社に再就職し、58歳で脳梗塞で倒れた。後遺症は残ったけど、多分リハビリすればかなり快復したんじゃないかと思う。
しかし、本人がリハビリを嫌がり、結局先日75歳で亡くなるまで会話ができないまま、右手に麻痺が残った状態で、家でテレビを見たり、やたらと洗濯したり、近くを散歩して18年間を過ごした。こちらの言うことは理解してたし、囲碁は私より強かったから、頭が一切ダメになったわけではなかった。孫、つまり私の娘のこともよくわかっていて、一年に一度帰省すると喜んでいたようだった。
ただ、比べるのはおかしいかもしれないが、脳梗塞のような脳の病気は、体の病気よりも大変だ。特に父は体が頑強だから、力で押さえつけるのが難しい。小さくはあるけれども何度か騒ぎを起こして近所の人に迷惑をかけたようだ。
母はいちいち私に相談したり助けを求めるようなタイプではなかったので、後から聞かされたのだが、大変だったんだろうと思う。
わたしは、昨日48歳になった。あと10年で父が倒れた歳になる。タバコは吸ったことがないし、酒も普段は飲まない。ただ、遺伝があるから、心構えはしなくてはならないと思う。
振り返ってみれば、私は、父のようになりたくないと思いながら生きてきたが、結局同じような道を進んでいる。
父は1938年に福岡の筑豊で、炭鉱の事務員である祖父の次男として生まれた。中学校では成績がよく、地元の進学校であった嘉穂高校に合格したが、祖父は進学させず、卒業後すぐに働かせようとしていた。
すでに働いていた父の兄が、祖父に頼んでくれたが聞き入れられず、担任の先生まで家に来て祖父を説得したらしい。しかしどうしても首を縦に振らない祖父に、担任の先生が妥協案として、嘉穂高校の定時制を提案し、ようやく祖父もそれで折れた。
昼は父の兄が紹介してくれた炭鉱の地上勤務の仕事をしながら、夕方から嘉穂高校に通い、柔道部の活動もして段持ちになった。
炭鉱での仕事に先はないと考えたのかはわからないが、母の言葉によれば、勉強できる仕事を探した結果、自衛隊を選んだらしい。
父の自衛隊の同僚だった母の兄が、自分がなかなか合格できない昇進試験にストレートで次々に合格していく父を気に入り商業高校を卒業して就職していた母に紹介したのが、父と母が結婚するきっかけだった。
本人の希望通り、自衛隊に入隊後は車両や戦車の整備を学び退官時には部隊の整備班の責任者になっていたようだ。20人くらいの部下を持つ立場になっていた。ただ、もともと戦車大隊にいたが、日の当たる部門ではあるが転勤が多く、子供の教育上は望ましくないと考え、母の実家のある別府の普通科連隊に転属を希望して移った。普通科連隊というのは歩兵部隊のこと。華やかな戦車大隊に比べ整備対象の車両は数も少なく地味だったし、転勤を避けることは出世の道から降りたことになったということだろう。ただ、本人がどう思っていたのかは結局聴く機会がなかった。
家から駐屯地まではバイクで10分程度。朝の7時過ぎには家を出ていき、17時20分頃には帰ってくる。そこはさすがに公務員だ。そして、18時過ぎには夕食。芋焼酎のお湯割りを飲みながら、煙草を吸い、テレビを見たり、新聞を読んだりしてそのうち、食卓の下に足をいれたまま畳の上で寝てしまう。
家では焼酎を飲むが、飲み屋には一切いかない。
私が家を離れるまでの年月を思い返しても、父が飲み屋に行って夕方に家に帰ってこないことなんて、本当に数えるほどだった。
土日につきあいゴルフがあるわけでもなく、かといって家族で旅行に行ったり外食にでかけることはほとんどない。せいぜい一年に一度か二度。
趣味もほとんど持ってない。書道はこちらもどこでどうしたのか段を持っていたが、私が小学校の高学年になってからは、ほとんどやってるのをみたことがない。詩吟を習いに行っていたことがあるが、ある程度まで行くと、つきあいみたいなことに金がかかるようになって辞めてしまった。
家に友人が訪ねてくることもないし、自分が訪ねていくこともない。
ただ、それは不思議ではない。
仕事で手を抜かない堅物。人付き合いより仕事自体が重要。人の気持ちはわかっていても、あまり重要だと思っていない。だから、ある種の敬意をもたれながらも、どこか接しにくいと思われ、煙たがられてる感じ。父の自衛隊の同僚とわずかながら話す機会があったが、子供ながらに、そういう雰囲気を感じ取っていた。実際倒れてからも見舞いの人はほとんどなかったらしい。
ようやく自衛隊の生活が終わり5年間。息子である私の結婚も決まり、結納を済ませた直後、脳梗塞で倒れた。
今考えても、こんな人生楽しかったのだろうか、そう思う。
そして、酒やたばこ、そして部下の数を除けば、今の私そのもののように思える。
平日はとにかく仕事。父は車両相手だったが私はコンピュータ。
勤務態度は別にして、たぶん仕事に対する姿勢は堅物。
会社の同僚と飲みに行くのは一年に数度。
家と会社の往復だけの毎日。さらに、通勤は5分。
家に帰ったら、子供の前で勉強するわけでもなく、読書するわけでもなく、リビングでごろごろ。土日も疲れ果ててごろごろ。
友人を家に呼ぶことも、呼ばれて出かけていくこともほとんどなくなった。
自分が嫌で嫌でしょうがなかったものに、これほど似てしまうのは、やはり親子だからしかたないのだろうか。
父が倒れて17年後。
昨年突然膀胱がんの末期であることがわかったが、悩んだ挙句、最終的に本人の希望と母の判断で手術はしなかった。
手術のためには、服用していた心臓病の薬をしばらく止めなくてはならないが、その状態で手術した場合に、心臓への負担で危険な状態になる可能性が高いと医師に説明されたためだ。
秋口には、かなり状況が悪化し、入院先の病院でさかんに痛がるようになっていた。医師からもう持たないと言われて私が駆けつけた。顔に生気がなくなっていた。しかし、次の週、孫である私の娘やヨメを呼び寄せて顔を見せたところ、顔に生気が戻ってきた。そして、医師も驚くほど一時的に快復し、退院し家に戻った。一時は大量に処方していたモルヒネも本人がいらないといい、入院していた時期よりも痛がる頻度や程度が落ち着いていた。しばらくすると家の外を散歩するほどになっていた。
今年は、結婚後初めて正月にヨメと娘を連れて帰省し、毎年正月に帰省する私の弟といっしょに、父と母と過ごした。嬉しかったのか、日ごろはひかえている酒をずいぶん飲んでいた。
私たち家族が実家を離れ大阪に帰るとき、スマートフォンで写真をとった。父はずいぶんしばらくぶりに見るあかるい表情で孫の横で笑顔をつくって写っている。
そしてそれが父にとっては最初で最後の息子二人、息子のヨメ、孫といっしょに過ごす正月となった。
2月15日の午前3時母から「亡くなったよ」と電話が入った。大雪の日だったが、なんとか私たち家族は15日の夕方には別府にたどり着いた。八王子に住んでいる弟は翌16日の午前中にようやく到着した。斎場の都合で通夜は16日の夜になり、17日の午前中に葬儀をおこない、午後には火葬場で骨になった。
物心ついてから、父と話すのを避けていた。そして、そのまま話すことなく父はいなくなった。たぶん、17年前にすでに父の半分くらいはいなくなっていた。そして、今年残りの半分も存在を失った。
あと10年で、父の半分くらいが失われた58歳に、私も達する。
月並みな感想だけど、人生って儚いものだ。
昨日、今日、私のそれぞれの一日を、将来後悔せずに済むだろか。
私がやっている仕事は、本当に必要としている人たちのためになっているのだろうか。もう、時間はそれほど残っていない。そんなことを考えています。
新型コロナウイルス感染者
志村けんさんが亡くなった。
CNNのサイトにも掲載されていました。
いい笑顔の写真なので、余計に悲しい気持ちになります。
https://edition.cnn.com/world/live-news/coronavirus-outbreak-03-30-20-intl-hnk/index.html
オペラ歌手のプラシド・ドミンゴも感染して治療中とのこと。