なぜ木の棒で白い玉を叩く人が英雄としてあがめられるにいたったか

なにをするにも、投資効果の資料だの、契約書だの、稟議書だのを作成し、足し算さえ理解できてないようなお爺ちゃんにハンコをついてもらわなければ、自分の仕事が一切進まないような世界に生きているわけです。私は。

だから、木の棒で白い玉を無心に叩いていると、なぜか国民栄誉がもらえたりするのはとってもラッキーで楽しそうだと思います。そりゃ、日曜日に、髪の一部が白く変色した人の番組で、大沢親分やチョーさんに「喝」を入れられることがあるから大変かもしれないけれど、気にしなければ喝を入れられても、なんてことないし。

しかし、野球やベースボール、韓国で言うところの、えー、むにゃむにゃ、という遊びも、ここまで来るのに手をこまねいていたわけではありません。
まず、木の棒で白い玉を叩くことで、がっぽり儲けたい、というコペルニクス的発想転換をおこなった人は、空気や水と同じように無料だったコンピュータプログラムに値札をつけた外見が貧相な富豪米国人ビル・ゲイツさんなみに革命的な偉人なのです。

たしかに、最近のマラソン競技は、なぜかスタート地点に戻ってくるという、究極のムダをしてしまっています。F1 だって、小さくて、金をかけてないからタイヤの支えに鉄の棒しか使えないような弱弱しい車で、同じとこをバカみたいにグルグル回っています。しかし、マラソンはとてつもない距離を一気に走っちゃうし、F1 だってなんだかいろいろなものが車にくっつていて、すごそうな感じは少しだけ伝わってきます。科学技術の粋を集めてるんだなあ、って。そういったすごさが感じられる同じスポーツの中で、木の棒で白い玉を叩いて、小さな四角い場所をいい歳をした大人が走り回って、たまには、腹を下にして土の中を「ズサーッ」ってやるなんて、どうでしょう。タッチしたとかタッチしないとかで本気になって怒ってるなんて、まるでウンチのついた手で触られるのが嫌で逃げ回るエンガチョなキッズ並みです。冷静になったら、笑っちゃうんじゃないでしょうか。

しかし、我々は、野球がすごいことだと思い込んでいるのです。少なくとも交差点の角の郵便局の職員よりは、木の棒で白い玉を叩く人たちの方が、人格的にも立派ですばらしいと思い込んでいるのです。それはなぜでしょうか。

幼い頃、必ず聞かされるのが、ベーブルースと不治の病に倒れた野球ファンの子供の心温まる交流です。金を出して買った小学館の子供雑誌でそうやってPRされて脳に刷り込まれるからこそ、木の棒で白い玉を叩く遊びに過ぎないのに、人生を教わったり、日本が世界一になったりするのです。ベーブルースに限らず、日本だって長嶋や、王などをはじめとして、堀内以外の野球選手はたいてい美談を持っています。堀内は首のほくろ以外、こういった美談を持っていません。不治でしかも野球好きの病気の子供がそんなに都合よく一杯いるのだろうか、と疑問に思うほどです。しかもたいてい彼らは、自分の途方もない収入の一部を子供の治療に使ったりはしません。木の棒に読めないような字で自分の名前を書きなぐってプレゼントするのが関の山です。しかし、それで子供も喜び、人々を感動させるのです。こんなコストパフォーマンスに優れたことって、中国製の家電製品程度ではまったくかないません。残飯で作った餃子を輸出するくらいしないと、こんな高い利益は出ないです。

そうです。ほんとは、10年故障しない冷蔵庫を設計できる人とかのほうが世の中のためになっているような気が激しくするわけです。ですが、そういう人は不治の病の子供に冷蔵庫を送ったりしない(送っても置き場に困るし)ですし、そもそも新品の冷蔵庫にマジックで自分の名前をかきなぐることには抵抗を感じるはずです。

つまり、長々と書いてきた結論はたいしたことではないのです。国民栄誉賞天皇が「ほらやるよ」ってくれるビラビラのついた金属の塊(「くんせい」だったっけ)がもらいたかったら、まず第一に不治の子供を捜せってことなのです。いなかったら、ナベツネさんあたりに頼んで、用意してもらいましょう。やらせでもいいんです。そして、冷蔵庫とか、木の棒とかに名前を書きなぐってプレゼントして「勇気づける」ことです。
もし、そのまま不治の子供が亡くなれば「あの子は最後まで、冷蔵庫を眺めて元気づけられました。ありがとう。」ってことになるし、もし元気になれば「毎日、冷蔵庫に頬ずりして喜んでいました。冷蔵庫のおかげで生命力が湧き出て元気になりました。将来は冷蔵庫の設計をやるって言ってます。」となります。どちらにしても、たいへんなPRになります。
なぜ、家電業界、役人業界、犯罪業界の人々はこういったことを考えないのでしょうか。私には理解できません。