BSアニメ夜話 ガンダム

第2弾やっていたの知らなかった。アニメ夜話。たまたま通りかかったらやっていた。ガンダム

いやあ、すばらしかった。特に安彦良和氏について、あれだけちゃんと言及した例を私はあまり知らない。ガンダムはもちろん手練のベテランクリエーター富野氏の強い個性が発揮された作品だが、それをあのような具体的な形として表すことができたのは、安彦良和氏だったからだ。ガンダム設定集の絵は、アニメージュの「ロマンアルバム」で、繰り返し眺めて感嘆していたものだ。大河原邦男氏のオリジナルのガンダムデザインは、従来のオモチャ的なロボットのダサい線で描かれていた。あれを、才能のないアニメーターが作品にしていたら、決してガンダムは今のような「産業」にはなっていなかっただろう。見事なシルエットの立ち姿に洗練したのは安彦氏だ。ふくらはぎの線。胸から腹にかけての有機的かつメカニカルなデザイン。大河原氏のデザインのモチーフを消化して、はるかに高い次元に引き上げている。すごい。

しかし、いわゆるアニメオタクは、こういったことはあまりに当然なのか、それとも自覚的でないためか、あまり取り上げられない。むしろ、安彦氏の絵の特徴を剽窃に近い形で利用しながらも、その画力であきらかにレベルが違う美樹本晴彦あたりの方が、当時はミーハー的に取り上げられていた。たんに彼らが考える可愛らしい娘をモチーフにしていたからじゃあないのかな。あの頃からアニメ全体にいやな予感を感じていたんだよな。

ガンダムファンには、いろいろな派閥があるらしいが、私は「安彦良和原理主義」だ。ガンダム富野由悠季が必要なのは当然だが、同時に安彦良和も必須である。両方そろわないとガンダムではない。だから、その後多く作られたガンダムはその一点により「ガンダム」ではなく、あくまでガンダムの派生物である。唯一、今連載中の「ガンダム・オリジン」こそが、もうひとつの「ガンダム」作品だ。

いや、オリジナルの「ファースト」ガンダムも、安彦氏が離れてからは「ガンダム」ではない。絵がひどい。あんまりである。そして、同じシーンの使いまわしが増える。レイアウトや、カット割りも凡庸になる。初回のあの見事なシーンの連続とはまったく別物である。ガンダム未満であり、ガンダムではない。

当時、徳間書店がバックアップしていたのが宮崎駿安彦良和。慧眼だ。徳間は、未来少年コナンカリオストロの城と、傑作を発表しつつ正当に評価されず不遇を囲っていた宮崎に、アニメージュ誌上で「風の谷のナウシカ」を連載させる。このとき、ペン入れなどの伝統的なマンガ文化の方式を要求せず鉛筆描きでもよいとしたため、あのすばらしいタッチが後世に残った。本来ペン入れなどというのは、レベルの低い印刷の都合を優先して、マンガ家に無駄な作業を強いているだけであって、そんなもの印刷の側が工夫すればなんとでもなるのだ。それが技術の正しい使い方だ。それを徳間書店はやり遂げた。

ガンダムの初回放送の途中で倒れて入院してしまって、放送中に復帰できなかった安彦良和アニメージュ別冊の「リュウ」に「アリオン」を連載開始した。この作品もいわゆるペン入れをおこなっていない。細い筆で、なんと枠線までフリーハンドで描いている。そのタッチは、それまでのマンガで見たことがないもので、私は驚愕した。斬新なコマ割り。複数の絵が並んで1ページになっているのではなく、1ページが枠線で区切られながらもすべてそのまま絵になっている。あれはすごかった。あの頃と比べると、最近の安彦氏の作品は、従来のマンガの様式にのっとったものに近づいている。仕方がないのかもしれない。

この2人、ほぼ同じ路をたどる。マンガで食いつないでいるうちに、映画監督の話が出るのだ。宮崎駿はもちろん「風の谷のナウシカ」。そして、安彦良和は小説のイラストを担当していた「クラッシャージョウ」。

どちらも公開時の条件が悪く、決してヒットはしなかった。しかし、その少ない上映タイミングには、映画館はいっぱいになっていた。個人的には、風の谷のナウシカよりも、クラッシャージョウの方が込んでいた記憶がある。立ち見状態だった。小学校低学年の子供が私の横にいて、前に立った背の高い観客の後ろで何も見えない状態だったので、声をかけて前に通してやったりしたっけ。

エンターテインメントに徹した「クラッシャージョウ」に対して、物語の最後にある種の破綻を起こした「風の谷のナウシカ」。しかし、結果的により広い層に受け入れられたのは宮崎アニメだった。

両者とも非常に高いレベルでの作家性とアニメーターとしての才能を持っているが、無理矢理言えば、宮崎駿に比べて安彦良和の方が「アニメーター寄り」なのではないかと感じている。しかし、結果的に宮崎氏はアニメーション中心に大作家の道を進み、安彦氏はアニメーター廃業を宣言し漫画家として作品を発表しつづけている。