東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ 読了

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ

読み終わった。あくまで、遙洋子の体験談のレベル。異界に迷い込んだ人の冒険--譚としての面白さはあるかもしれないが、フェミニズムについて、これでどうこうという内容ではない。

タイトルにもなっている「ケンカを学ぶ」については、私はまず動機が理解ができない。口げんかで負けたくないというレベルにしか思えない。

ただ、なんとなく、予想はつくのだ。芸能界やマスコミは日本の他の産業と比べると、もっとも保守的な場所だと思われる。たとえば、NHK のような「公的な」はずの組織でも、いまだに「7時」や「9時」のニュースのキャスターは男性アナウンサーで、女性は補佐的な役割。さらに天気予報やスポーツ担当。彩として横に置かれている。多分本人たちは意識さえしてないんだろう。しかも、女性アナウンサーは久保純子みたいな「コネ」のある者ならハイヒールモモコと同じ構成の顔立ちでも入局できるようだが、そうでもなければ見栄えがそこそこいいとされているタイプの人間が選ばれている。女優やタレントならいざしらず、アナウンサー、しかも公的機関の職員であれば、たとえば吉本ばななみたいな顔立ちの女性がやっていてもいいはずだ。こういう言い方をすること自体が吉本氏には失礼なことだろうが、許してつかわさい。どうせ、本人がここを読むことないだろうからいいっしょ。

そんなところに身を置いて、いざ「両性の平等」なんて事を意識してしまったら、現実との乖離に居心地悪くなるのは当然だ。しかし、だからといって「ケンカ」で相手を言い負かして、どうなるのか。相手をその一瞬黙らせてどうなるのか。なんだか、その論理の飛躍が理解できないのだ。

最後の方に出てくるこの本のまとめ?「ケンカのしかた・十箇条」も、議論を深めるための手法としてまとめれば建設的で、有益なものになりえたと思うが、底が浅い。本人が「男のもてあそび方十箇条」と言い換えているくらいなので、「男」であったり「男性性」のようなものに対する「ケンカのしかた」としてのアイデアがあるならわかるのだが、たんに「議論で相手を言い負かす方法」程度の話で、あえて「男」を仮想敵にしている意味が感じられない。

結局、私が遙洋子に対して感じる違和感は、彼女がフェミニズム的な発言をするからではなく、発言の中にある飛躍やズレなのかなあと思った次第。身についていない言葉を背伸びして使っている部分も正直辟易した。

社民党福島瑞穂あたりにも同じ「ズレ」のにおいを感じる。まあ彼女はフェミニストじゃなさそうだが。田嶋陽子は、そういった論理の飛躍はあまり感じないので、言っていることに賛成できない場合も理解はできるのだが。