ルールは道具に過ぎない。道具を使うのは人間の意思だ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071215-00000937-san-soci

 馬込容疑者宅の近くに住む会社役員の男性(67)は約5年前、同容疑者の異常な言動が目立つため、地元の交番に散弾銃所持の許可を取り消すよう通報したが、その後も同容疑者の身辺調査など署の具体的な対応はなかったという。
 男性は「安心して暮らせないと何度も言った。散弾銃を持たせていなければこんな事件は起きなかった」と批判する。
 これに対し同署は「当時の調査は適正だった」とした上で、「法的な要件をクリアしていれば、猟銃所持を許可するしかない」と話している。

法律やルールというのは人間がしなければならないことを示すものではない。法律やルールが人生を決めてくれるわけではない。
会社の中でも、一般社会の中でも、法律やルールをことさら絶対視するタイプの人がいる。こういった人々の共通点は、行動の責任を取らない所。他者が決めた基準に従っているので、自分には責任がない、という態度をとることだ。
しかし、実際の生活や仕事の中で、法律やルールによって決められた部分なんて、本当にわずかしかない。個々の行為のほとんどはその場その場で個人が決めている。だからこそ人生に千差万別で同じものは一つとしてないのだ。

確かに役人の行動の最低基準は法律だろう。しかし、最低基準を判断材料にせざるをえない状態がどれだけ日々の仕事の中で発生しているのだろうか。「法律上これしかしようがなかった」という役人の言い訳を聞かされるたびに、最低基準である法律を盾に、仕事自体を最低基準に抑えていただけだろうと受け取っているのは私だけだろうか。目的のための方策が法律内に収まるかどうかを検討するのではなく、法律に書かれたこと以外の行動はとらない。どう見ても手抜きである。なぜなら、自分たちの処遇の改善や天下り先の確保には、考えられない程のオリジナリティを発揮し、ミナミの帝王並に法律の穴を見つけ、どんな困難な問題も克服する行動力を示しているのだから、やろうと思ったらなんでもできる能力はあるのだ。

警察の役割は、法律を守って精神的な不安定な人間に殺人を犯させることではなく、あくまで「市民を守る」ことだろう。そのためにできることを法律の枠内で模索してこそ、その仕事を人間がやる意味がある。事後の対応だけでなく、予防的な許認可の権限も持っている。自動車免許制度だって、ある意味その一つだ。もし、彼らに「市民を守る」ために何かをやろうという意思がないのなら、どれだけルールがあっても意味がない。どんな素晴らしい道具も使う人間がいなければ意味がない。そして、弘法は筆を選ばず。その意志と能力があれば、道具の持つハンデは何とかなるもののはずだ。最近、実感している。