キャスト・アウェイ

ヨメといっしょに見始めたが、睡眠不足のヨメが途中で眠ってしまった。

この映画、無人島に遭難して帰ってくるだけの話だ。セリフも少なく、一般の評価もあまり高くないようだ。しかし、私は、この映画に限らずロバート・ゼメキスの作品にはなぜか感動してしまう。なぜだかわからない。あまり考えたことがなかった。

ただ、そのための手がかりを今年になってひとつ見つけた。
ホームシアターファイル」という雑誌の清水義範氏のエッセイだったと思う。当該号が見当たらないので、正確には引用できない。彼によるとロバート・ゼメキスは、キリスト教の題材の暗喩を作品内でよく用いるとのこと。清水氏はそれについていけないところがあるらしい。それまでロバート・ゼメキスは、きっちりとしたエンターテイメントを作る職人監督だというイメージが強く意外だったが、そう言われれば思い当たることは多い。というか「コンタクト」「フォレスト・ガンプ」ともに、テーマそのものにはっきりと強く宗教的な思想がからんでいる。「コンタクト」は科学と宗教の違い、共通点について明確に主張しているし、「フォレスト・ガンプ」にしても、特にダン中尉のエピソードは、失った信仰を取り戻すモロな話だ。
キャスト・アウェイ」は、これらに比べてそういった宗教的な題材は少なそうに見えるが、実はたくさん含まれている。清水氏は、バレーボールの「ウイルソン」や、ラストシーンの「十字路」や、ひとつだけ開封せずに届けた荷物についていた「天使の羽」あたりについて、考察を披露していた。簡単に言うと、基本的にこれらはすべて「神」か、その「使徒(天使)」としての性格を持っているというわけだ。

死にかけて、遭難し無人島で無為の5年間を過ごす。やっと娑婆に戻ったと思ったら、婚約者は別の家庭を持って子供まで持っていた、というのは不幸のどん底と思われてもしょうがない。しかも、5年間開封せずにわざわざ届けた荷物も、相手が留守で直接渡せない。これくらいツイてないのも珍しい。最後にスカッとしたカタルシスを求める米国メジャー映画とは思えない。しかも、それなのに主人公は十字路で「天使の羽」を見て、微笑むのである。これは、いまだにイラク911テロをおこなったと思ってる疑うことを知らず子供のような心と知能を持った国民がほとんどを占める国で、そういった脳みその利用法が不得意な人々にも必ず理解できるよう、これ以上ないくらいしっかりしたわかりやすい説明を求められ続けた監督が作ったラストシーンとはまるで思えないのである。

ロバート・ゼメキスのような監督の場合、無駄なカットはひとつもない。すべてが完全に計算されて作られている。つまりここでの微笑みは明確な意味を持っているのである。

ここで、ひとつひとつその意味を書いてもいいわけだが、私などが書くよりももっと明快で、詳細に記述しているページがある。
http://www.tcp-ip.or.jp/~iwamatsu/seefilm/50on/ki/cast_away.html

すばらしい分析だと思う。このくらいきちんと見てもらえたら、ゼメキスも本望なのではないか。
あとは、このページで「受容の精神」とされている部分が「神」とどう関係するのか、同じことを意味するのか、そのあたりを考えると面白いよなあ。